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今日も他人事

今日も他人事

208年 ~臥龍の下野~


劉備軍の動きがにわかに活発になった。

新野の守りを固める一方で、西の上庸を趙雲に占拠させ、文官を派遣し民政を整えた。

上庸と新野の中間に位置する宛には、曹操軍の曹仁が駐屯しているが、背後に流れる漢水を利用して物資の輸送を行うことができるので、兵站の確保も容易である。

今は趙雲が一万の兵と共に駐留し、西から宛を牽制する姿勢を取っていた。それまで新野にじっと身を潜めていたのが信じられない変貌ぶりだった。

そのすべてが軍師として迎えられた徐庶の献策によるものだったらしい。

そうした劉備軍の動きを警戒したのか、あるいは力を探りに来たのか、曹仁が二万の軍勢を率いて宛から南下してきたのが二ヶ月程前のことである。

同時に、東の許昌や汝南からも一万ほどの軍勢が新野へと向かってきたが、これは関羽や張飛、関平によって撃退されている。

事態が動き出している。その気配は確かにある。しかし、董白の周りに目立った変化はなかった。

新野に曹仁が攻め込んできた時も、劉備と共に守備役として居残りを命じられたのである。

幼い頃から祖父に習っていた馬術を認められて、仮にも劉備軍の軽騎兵部隊の隊長を任せられているのだ。

董白は何度も出撃を求めたが、劉備は決して許可を出そうとしない。

新野には実戦に耐えられる騎馬が二千頭しかいないというのが理由だった。

軍師である徐庶も、新野の地形では騎兵部隊の力は活かしにくい、と反対した。

二人とも、正しい事を言っているので、董白も出兵を諦めざるを得なかった。

「仕方ない、白。劉備様も、徐庶殿の言っていることも正しい。寡兵でぶつかって倒せるほど、曹操軍は脆くない」

副官の華姫が、董白の傍に馬を寄せて来て言った。

新野の郊外にある野営地である。曹操軍が撃退されたので、各部隊の調練も再開されていた。

董白が指揮しているのは一千騎で、残りの一千騎は張飛が指揮を取っている。

歩兵二万に比べると明らかに騎馬の数は少なかった。増強するように度々、具申していたが、歩兵の補充が優先されて、常に騎兵部隊は兵力不足という状態が続いている。

「けど、撹乱ぐらいにはなるじゃない。それを劉備の奴、駄目だの一点張りで、私の言うことを聞こうともしないで」
「多少の撹乱にはなるかもしれない。けど、もし一万の兵に襲われたら一千騎だと一溜りもない」
「それは、そうだけど」
「焦っては駄目。白は、騎兵の指揮は巧いから、騎馬さえ揃えばきっと活躍できる。それまでは耐えるしかない」

華姫の口調はどこまでも静かだった。風が原野に吹き、髪を靡かせる。長く伸ばしている董白の髪とは異なり、華姫の髪は短く切り揃えられていた。ただ、右目の部分だけ前髪が長く、完全に顔の半分を覆っている。額から右頬にかけて深い裂傷が走っており、それを隠す為にわざと伸ばしているのだ。前髪の下には包帯も巻かれていて、決して人目につかないようにしている。

華姫とは幼馴染である。シ水関で戦死した華雄の娘で、長安に遷都した頃、祖父の董卓に引き取られ、眉オ城で共に育てられた。

幼い頃から董白に付き従い、ほとんど主従のような関係だった。そして、長安の動乱を共に生き残った。顔の傷は、その時にできたものだった。十五年前、眉オ城に漢軍が攻め込んできた時、董白を庇って顔を剣で切られたのである。傷は深く、右目も完全に潰れてしまっていた。

自分を庇ったために、癒えることのない傷を作った。恨まれても仕方がない、と思っているが、華姫は傷に関しては何も言わず、ただ寂しそうに微笑むだけだった。華姫の顔の包帯を見るたびに、引け目を感じてしまうが、それ以上に董白が信頼を置いている数少ない一人でもあった。

「分かったわよ。要は、時期が来るのを待つしかないってことでしょ」
「白」
「長安でおじいさまが殺されてから十五年間、ずっと耐えてきた。劉備との流浪にもずっと従ったし、この新野に来てから七年間も耐えたわ。あと一年でも二年でも、待ってあげるわよ」

華姫は何も言わず、ただ微笑を浮かべて頷いた。

董白は手綱を引き、馬を駆けさせ始めた。はじめはゆっくりと、徐々に速度を上げていく。

馬を駆けさせている時、董白は気の迷いや苛立ちに悩まされることはなかった。もっと、早く駆けたい。ただ、そう思うだけだ。

董白のすぐ傍。華姫がぴたりと付いて来ているのが見えた。




昨年末、劉備の下に届いた曹操軍南下の報告。

宛からは曹仁の指揮する約二万の軍勢が南下し、同時に東の許昌からジュンユウ、汝南から張コウがそれぞれ八千の兵を率いて新野に向かってきていました。

この時、まだ上庸は開発の途上であり、援軍を送ることはできません。

劉備は新野に駐屯する二万五千の兵の内、五千ずつを関羽、張飛、趙雲、関平に任せて迎撃に向かわせました。

指揮を託された関羽は軍を二手に分け、張飛、趙雲、関平に曹仁軍の撃退を任せると、自らは五千の歩兵を率いて、西進してくる張コウとジュンユウを迎撃するため、汝南や許昌から新野に続く狭路に陣取ります。

張飛らは奮戦して曹仁軍を撃退すると、すぐさま反転し、狭路で大軍を食い止めていた関羽と交替。

繰り返し送り込まれてくる曹操軍をなんとか撃退しましたが、劉備軍もまたこの戦いの中で、五千に近い兵を失っていました。

そんな劉備の下を水鏡先生と呼ばれる司馬徽が訪れ、時勢を知る俊才として「臥龍」と「鳳雛」を紹介します。

そして、臥龍とは諸葛亮の事であり、新野で晴耕雨読の日々を過ごしている事を告げました。

劉備ははじめ、旧来の友である徐庶に諸葛亮の誘致を依頼しますが、徐庶は固辞します。


『諸葛亮は優れた人物であり、私が呼びかけたぐらいで動くような人物ではありません。また、自らを管仲や楽毅に例える気位の高い所もあります。ここは殿が自ら出向き、隠すことなく己が心情と漢王朝復興の志を説いて頂きたい。賢者を招くのに、苦労を惜しむべきではありません』

張飛や関羽は不満を露にしましたが、劉備は徐庶の言い分はもっともだと思い、二人の義弟を伴って諸葛亮の庵を訪ねました。

そして、三度の訪問の末、諸葛亮の心を動かし、軍師として招き入れることに成功したのです。

この時、諸葛亮はまだ二十七歳という若さでしたが、劉備に天下の情勢を示し、『天下三分の計』を教えました。


『今、曹操は中原から河北に到る人口の多い地域を治めています。その兵力は五十万にも昇り、治世においても軍事においても隙はなく、独力で正面から戦って倒すのは至難でしょう。まず、劉備様には曹操と戦えるだけの力をつけていかなくてはなりません。揚州は孫権がしっかりと統治しているため、手の出し様がありませんので、劉備様にはこの荊州と西の益州を征して頂きます。その後、天下に変事が起きた後、揚州の孫権と結び、信頼できる武将に荊州の軍を北上させ、劉備様自身は益州の軍を率いて中原に進出すれば漢王朝の復興を果たすことができます』

劉備は諸葛亮の戦略に感嘆しましたが、果たしてそう巧くゆくのだろうかと諸葛亮に尋ねました。

それに対して、諸葛亮は荊州の劉表の後継者を巡って家臣が割れていること、益州の劉障が凡庸な人物であることを一つ一つ挙げて、劉備を納得させました。

正式に劉備軍の軍師として迎え入れられた諸葛亮は、速やかに防衛施設の再建と人材の増強を図ります。

まだ流浪中であった無名のトウ芝やシャマカ、フトウを登用し、魏フウや馬ショクといった名士を招き入れていきます。

更に上庸から西の漢中へと簡擁と孫乾を使者として送りました。

当時の漢中は五斗米道の信徒達によって支配されており、五万の兵を擁する独立勢力でもあったからです。

使者達は五斗米道の教祖である張魯と面会し、劉備軍が漢中の五斗米道軍とは交戦するつもりがないことを告げ、長期的な不可侵条約を結ぶことに成功しました。

諸葛亮を軍師に迎えた劉備軍は、『天下三分の計』を実現し、曹操軍に対抗する力をつけるべく着々とその準備を進めていたのです。


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